「化学教育ジャーナル(CEJ)」第11巻第1号(通巻20号)発行2008年11月11日/採録番号11-1/2008年10月17日受理
URL = http://chem.sci.utsunomiya-u.ac.jp/cejrnl.html


巻頭言 化学者の不勉強について

Chemists should study theory more deeply


 細矢 治夫(日本コンピュータ化学 会会長)

Professor Emeritus, Ochanomizu University
President, Society of Computer Chemistry, Japan



 この表題を見てビビってしまう人がいるかも知れないが、化学オリンピックで経験した化学教育に熱心な外国の化学の先生の無知さかげんにあきれた話が中心なので、少し安心して読んで欲しい。でも、その後にちょっと「お注射」もするつもりなので、それも頭に入れておいて欲しい。

1 ルイス式と有機電子論の横行

 化学オリンピック2005年は台北で開かれ、筆者はメンター(付き添い人)の一人として現地に行った。実験が終わって直ぐにメンター会議に呼び出され、理論(筆記試験)の問題の開示と意見交換が行われた。

 その問題の中に、何と「CO 分子のルイス式を描け。電荷は不要。」というのがあり、更にその後に、スルホン(RR'SO2)のルイス式を描くものもあった。わが国の高校の教科書には「ルイス式」の語が入っていないので、「電子構造式」と翻訳すれば出題者の意図は生徒に伝わる。しかし、「ルイス式」という言葉を教えないのは、わが国の高校化学教育が遅れているのではない。あちらがおかしいのである。

 何故って、米国のルイスもコッセルも、量子力学はおろか、電子の本質もまだ知ることもなかった人達なのだ。英国のロビンソンもインゴルドも、少なくとも彼等が「有機電子論」を提唱したときはそれとご同様だったのだ。それなのに、現在世界中で使われている一般化学(大学生向けの)の教科書には麗々しく「ルイス式」の描き方が解説されている。三十年前の本より紙面を多く使っている。それなのに「電荷抜き」で OK というのだからあきれてものが言えない。ポーリング先生がそれを知ったら、かんかんになって暴れまくるに違いない。そのとき、台北の本屋で買い集めた高校化学の教科書も欧米の本に右へ倣えだった。

 そして、世界中の大学生や院生向けの有機の教科書には、理論的根拠はまったく述べずに、ベンゼン置換体のオルトパラ配向性に代表される「有機電子論」の処方箋が有難く掲げられている。ヒュッケル法の簡単な紹介はそういう本には必ず入っている。だから、一言でも理論的裏付けについて書けばよいのに、そう書かれた本は皆無である。中には、「理屈はともかくこれで合うのだから、この使い方に慣れろ。」という新興宗教の教祖様の御託宣そのものというのが、この21世紀の大学教育の現場にのさばっているから恐ろしい。

 更に、有機の人達は、S原子の周りの価電子の数を勝手に変えて、「オクテット則」をこわしている。許されるためには、3d電子を入れればよいのだが、Sの周りの価電子数が、どういうときに8や12を選び分けるのかについての説明がなされている教科書など見たことがない。オリンピックに出て来る優秀な生徒達は、この大人の身勝手さをどう感じているのだろうか。多分論理的思考の強い子は、ここで化学を見捨ててしまうだろう。大体、CO分子の電子構造は理論家泣かせの非常に難しい問題で、簡単なルイス式一つでその基底状態を表すことなどできない代物なのである。

 そういう訳で、メンター会議では、「こんな悪い問題を出したら、世界中の理論化学者は化学オリンピックを馬鹿にしてしまうだろうから、こんな問題はやめてしまえ。」と大反対の発言をしたが、多勢に無勢で押し切られてしまった。でも後で、筆者に賛成だという声をそっと聞かせてくれる人が数人いた。だったら、どうしてメンター会議で声をあげてくれなかったの、と言いたくなる。

 さらにおまけの話がある。試験終了後、日本の選手の答案がメンターのところに回って来たので、それを見たら、案の定メタメタだった。ところが、公式の採点結果を見たらその部分は大甘の点がついていたのだ。メンター会議での筆者の発言や、高校生の答案を見て、出題者が反省した結果だと思っている。

2 ヒュッケル則の妄信

 今回 2008年化学オリンピックはハンガリーで無事終了したが、日本の高校生達の成績はあまり芳しくなかった。それはそれで良しとする。問題は、事前に配られた公式の準備問題集である。筆者は今回は特別の任務もなかったので、その問題を見たのは、公表後大分時間が経ってからだった。その点は反省している。

 ヒュッケルが見つけた経験則は、一つの環からなる不飽和共役炭化水素、すなわちアヌレンのπ電子系は、(4n+2)員環が安定で、4n員環が不安定であり、正負のイオンも考えれば、(4n+2)π電子系が安定であるということで、2個以上の環からなる共役系の安定性については彼は何も言っていない。ところが、世界中の多くの有機化学者は、「(4n+2)π電子系は安定で、4nπ電子系は不安定である。」ということが「ヒュッケル則」だと勝手に思い込んでいるので、C60のフラーレンが芳香族性を少しもつのはヒュッケル則の反例だと言って、自分の無知をさらけ出している人もいるのである。

 ハンガリーから来た問題には、ヒュッケル則の反例を出すことと、ポルフィリンのπ電子系には何個のπ電子が共役しているか等を答えさせる問題が含まれていた。これに悩んだ日本の高校生もいたのであるが、これが不適切な問題で、真実はこうなんだという指導ができないまま本番を迎えてしまった。筆者もあせったが、実際はヒュッケル則関係の問題は出なかった。

 以下は筆者の推測でしかないが、他国の関係者から問題の不備を厳しく指摘されて、ハンガリーの出題者がビビったのではないだろうか。でも、あんな問題が全世界に流れたということは、ハンガリーの化学者集団の大きな恥であることには変わりはない。

3 真実を見極める心

 この二つの事例は、化学教育という小さな閉じた世界のことであるが、物理や生物の方にも公表したがらない問題がいろいろあるようである。それをここで詮索する気は毛頭もない。しかし、折しもわが国は4人ものノーベル賞受賞で、科学を越えた盛り上がりを見せている。巷には、宇宙の根源に迫る科学者の探究心や、研究のために国を離れて異国の地で初心を貫徹した人の意気込みなどが話題になっている。それと比べて、自らの専門とする学問領域への取り組みに対して、何と安易な人達が化学者集団の中には多いのだろうか。悲しくなってしまう。

 なお、ルイス式やヒュッケル則について、もう少し詳しく知りたい方は、私の文章を読んで欲しい。

1) 細矢治夫, Molecular Science, 1, A0013 (2007). インターネットで「分子科学会」にアクセスすれば、ダウンロードできる。
 Molecular Science Vol. 1 のURL http://j-molsci.jp/article/2007_1/index.html


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