薬学教育においては,代表的な医薬品名とその薬理作用を関連づけて習得することは非常に重要である。手軽に薬理学の知識を習得する事を目的にスマートフォン版Kuthrill-くすり(Kuthrillスマホ版)を開発し,学習効果を検証するとともに,すでに報告したKuthrill PC版による学習効果と比較検討した。13名の薬学生に対して15日間の試行の結果を解析した。Kuthrill試行前後にペーパーテストも実施した。その結果,Kuthrillスマホ版の試行によって明らかに知識の増加が認められた(相関係数r=0.7)。ゲームのプレイ回数とスコア及び試行後ペーパーテストの結果にKuthrillスマホ版では有意な相関が認められた。これらの結果から,場所に縛られず,昼間の少しの空き時間を活用できるKuthrillスマホ版はインフォーマルラーニングに適するものと考えられる。
シリアスゲームとは,教育,医療,ビジネスなど社会的な目的を遂行するための支援ソフトウェアであり,ゲームの形式を採用するものである。藤本の著作[1]に示されるように,21世紀初頭から,産業はもとより研究の分野でも注目を集めている。ICT教育としての利用も盛んであり,ゲーム形式のe-learningとも言える。実際に制作されたシリアスゲームは,英語,歴史[1]の他,医療分野では医学[2],病院経営[3],トレーニング[4],リハビリテーション[5], [6]など多岐にわたる。
ICTを教育に活用することは現在の社会において異論はないだろうし,シリアスゲームにおいても同様であろう。経営学ではよく知られたドラッカー[7]も「学ぶ習慣を身につけるにはコンピュータが役に立ちます。子供たちはコンピュータでゲームをしたり,学習したりして,さまざまな能力を獲得できます。けれども,昔ながらの教室にいる限り,そうした能力が子供たちに植えつけられることはありません。(要約)」と述べている。
薬剤師に期待される職能の高度化や薬学教育6年制の導入により,薬学部で学習する内容が拡大している。薬理学の履修は,薬学基礎科目(生物学,物理学,有機化学,生化学,解剖学,生理学,分析化学など)が既習であることを前提としており,これら科目との関連性が大である。今回のKuturillスマホ版は,薬理学講義を修得した薬学生が薬の作用分類を復習する目的で制作された。薬理学は,薬の生体への作用を学ぶ学問である。様々な薬物の作用,副作用,使用時の注意点などを薬学生は,確実に覚えなければならない。すなわち次々と新しい医薬品が開発されており,薬学教育においては,代表的な医薬品名とその薬理作用を関連づけて習得することは非常に重要である。学習において,ゲーム方式を用いる試みは,感染症等に関するカードゲーム等での報告があるが[8],答え合わせを自ら行う必要性や学習記録の保存の観点からは,電子化する意義がある。
このような現状に即して我々は医薬品の薬理作用を効率的に習得することを目的に,落ちものパズル型(いわゆるテトリス(R)型)シリアスゲーム「Kuthrill-くすり」(以下,Kuthrill PC版)を開発した[9]-[11]。Kuthrillに類する単純なシリアスゲームに関しては,薬学教育においては薬剤師国家試験学習 [12], 生薬学[13], [14]があり,他の教育分野[15]-[19]でも研究報告がある。これらはいずれもPC上で作動する[19]が,医学英単語を学ぶiPad/iPhone用のアプリも開発されている[20]。
教育の場でのICT化については,文部科学省の主導で,一人一台端末の導入や,デジタル教材の充実がすすめられ [21], [22],学内でICTに触れる機会は増えているが,家庭学習については対象外である。
我々の以前の研究[9]では, Kuthrill PC版のスコアと通常のペーパー試験の成績に正の強い相関が観察されたことから,その学習効果が確認された。教育の場でのICT化については,しかし,ノート型PCを外出先で利用する場合は,その重量とサイズが持ち運ぶ際の問題となることもしばしばである。一方,現在急速に普及しているスマートフォンは,ノート型PCに比べて軽量・小型で携帯性に優れ,起動時間が短く,画面のタップによる直感的操作が可能であることから,時と場所を選ばずに学習を手軽に始められるという利点がある。そこで,本研究においては,自習等のインフォーマルラーニングに適すると期待できるKuthrillのスマートフォン版(以下,Kuthrillスマホ版)を制作し,その学習効果について以前開発したKuthrill PC版と比較した。
2010年頃までのプログラミング手法は現在ほど多岐ではなく, Kuthrill PC版は当時最も使いやすい手法の一つであったSilverlightにより制作された。このソフトはWindowsまたはMac OS Xを搭載したPCでは作動するが,スマートフォンでは作動しなかった。しかし,2012年頃になると,HTML5などが実用化され,プラットフォームに依存しないソフトの制作が容易になったためKuthrillスマホ版(PCでも作動)が制作された[9]-[11]。この時期(2012年)は,スマートフォンの普及が急激に進んだ時期でもあるため,PC版とスマホ版の学習ソフトの比較は時宜を得ていると考え,本研究を計画した。
2.1 開発教材の概要
Kuthrillスマホ版の制御と表示のプログラミング言語は,それぞれJavaScriptとHTML5である。サーバのデータベースへの記録データの転送は,PHPでプログラムした。ユーザーの記録は,Web Storageを利用してスマートフォンのメモリーへ保存した。Kuthrillは,スマートフォンのOSであるAndroid,iOSの他,IE9,Firefox,Safariなどのブラウザでも作動する。画面サイズ等を考慮して設計すれば,キーボード/マウスとタッチ/タップの差はあるものの,基本的な操作・機能はPC版とスマホ版で同じである。
Kuthrillは薬学系大学で教育する16の薬効を含み,それぞれ薬効には典型的な10の薬物が含まれている(計,160の薬物)。表1に示すように,16の薬効は,4つを1つの薬効グループとして括られている。Kuthrillは薬物名が書いてあるブロックをその薬効に従って分類するゲームであり,ゲームを始める前に4つの薬効グループの中の1つを選択する必要がある。
例えば,グループ1を選択し,モルヒネと書いてあるブロックが落ちてきた場合,方向キーまたはボタンを用いてヒスタミン拮抗薬,コリン作動薬,交感神経作動薬,鎮痛薬の4つの中の正解の薬効に分類する[9]。1つの薬効グループについては,40の薬物を4つの薬効に分類するゲームである。
Kuthrillの操作と機能は既に報告[9]してあるので,その詳細は本稿では省略する。Kuthrillでは,横に4つ正解の薬物ブロックが揃うとその段が消え,そのスコアは次のように計算される:
10点+Helpなしの正解数×2点+1段消しの数×4点−時間(秒)÷2(秒/点)
問題数は40,段消しは10まで可能であるから,プレイ時間を0とすると,スコアの理論上の最高点は130点である。プレイ中に画面をタップするとブロックが最も高い位置に戻る。Help機能として3回タップ(PC版ではクリック)すると正解が分かるようになっているが,加点はされない。
2.2 検証方法
約2週間にわたるKuthrillスマホ版の試行とその前後におけるペーパーテストの実施により,Kuthrillの学習効果を検証した。これらの日程は以下のとおりである。
問A 以下の薬物(1)〜(12)の薬効分類を選択肢欄Aから選び,その番号をマークシートの(1)〜(12)へマークしなさい。
(1) ペンタゾシン
(2) モルヒネ
…
(12) エピネフリン
【選択肢欄 A】
[1] ヒスタミン拮抗薬 [2] コリン作動薬 [3] 交感神経作動薬 [4] 鎮痛薬
この問題では,薬効[1]〜[4]は,表1の薬効グル―プ1である。(1)〜(12)の薬物は,薬効グループに含まれる40品目の中から12品目がランダムに出題されるため,それぞれの薬効ごとに3題が均等に出題されるわけではない。実際のペーパーテストでは,上記問題を薬効グループごとに出題する。すなわち48の薬物を分類する問題に相当する(実施方法については,方法2を参照)。
Kuthrill試行前と後のペーパーテストでは,この薬効グループとその中に含まれる薬効は表1と同じである。一方,それぞれの薬効グループに対して出題される12の薬物は,上記のランダム出題により,Kuthrill試行前と後のペーパーテストでは異なる。
4月17日(Kuthrill試行前)と5月1日(Kuthrill試行後)に実施したペーパーテストにおいては,解答時間はあらかじめ設定せず,回答用紙を提出した時間をペーパーテスト所要時間として取り扱った。
項1では,Kuthrillスマホ版だけの評価結果だけに焦点を絞り,図1及び図2に言及する。スマホ版とPC版との相違点は項2で,図3及び図4を用いて議論する。
3.1 Kuthrillスマホ版の効果について
本稿の表と図におけるテストに関する項目は紙ベースのテストからの算出であり,スコア,プレイ回数,プレイ日数はKuthrillの自動記録からの集計である。なお,スコアは最後の2回のプレイのスコアの平均である。
表2にあるように,Kuthrill試行後のペーパーテストの最高正答率97.9%とKuthrillスコアの最高点86.9点は共に被験者5である。試行後の最低点においては,ペーパーテストが被験者2,7の54.2%であり,スコアは被験者2,3,6,8の0点である。Kuthrill試行前後のペーパーテストの平均正答率は50.9%から73.1%に上昇しており,これらに差がないという仮説を立て有意差検定を行ったところ,危険水準0.01でこの仮説は棄却された。すなわち平均正答率は有意に上昇したと結論できる。
表2に挙げた幾つかの項目間の散布図を図1に示す。図1AはKuthrill試行前後のペーパーテストの成績の散布図である。全ての被験者の成績はKuthrill施行後に上昇しているが,相関係数は0.23であり,相関は認められなかった。Kuthrill試行前のペーパーテストの成績とKuthrillのスコアの相関は無い(図1B,r=−0.06)が,Kuthrill試行後のペーパーテストの成績とKuthrillのスコアには強い正の相関があった(図1C,r=0.70)。さらに,Kuthrill試行前後のペーパーテストの成績の伸び(差,成長度)とKuthrillのスコアにおいても強い相関がみられた(図1D,r=0.62)。
ゲームをプレイすることにより,脳に器質的変化が見られるとの報告がある [23]。Kuthrillによる学習効果は,単にゲーム操作に習熟したためとの見方ができるかもしれない。しかしながら,Kuthrillに慣れていないときは,テストの成績とスコアは無関係であるが(図1B),Kuthrillに慣れてくると,これらは相関する(図1Cと1D)。図1Bに相関がないことが重要である。被験者への聞き取り調査により,この試行期間にはKuthrill以外(例えば本など)では勉強していないことが判明した。したがって多くの被験者はKuthrillで学習し知識を得て,その操作にも慣れた結果,スコアとテストの正答率がどちらも上昇したと考えられる。なお,表2のテスト成長度とプレイ回数の相関係数は0.65であった。これらに正の相関があることからも,Kuthrillでの学習の成果が裏付けられた。
またテスト成長度とプレイ日数との相関係数は0.56であり,Kuthrillを使用する日数が多いほどテストの成績が向上すると推測できる。テストによる繰り返し学習は知識の習得において非常に重要である [24]。Kuthrillに長く接した被験者がテストで高得点を得る傾向があるという結果は,Kuthrillの学習効果の検証には肯定的である。
表2と同じ被験者に対するアンケート調査の結果を図2に示す。このアンケートはKuthrillに内蔵され,被験者はボタンを押すことによりその回答を他のKuthrillデータとともにサーバのデータベースに転送できる(方法の項を参照)。Kuthrillの面白さなどの質問に対して好意的な回答が得られ,特に「役に立ったか」の質問に対して12人中9人が「良」もしくは「最良」と回答している。図1からの推定と同様にこの結果は, Kuthrillは薬理学学習に有用であることを示している。
3.2 Kuthrillスマホ版とPC版との比較について
我々は,平成23年の約2ヶ月間において,ノート型PCを用いたKuthrill PC版の試行とその前後のペーパーテストの成績に関する調査研究を行った[9]。この研究で得られた結果と,今回のKuthrillスマホ版を用いた調査研究との結果を以下で比較する。ペーパーテストの形式はPC版とスマホ版で同じである。Kuthrill PC版とスマホ版では画面のデザインは少し異なるが,学習に関するコンテンツなどは全く同じである。比較は,プレイ回数とペーパーテストの成績,Kuthrillのスコアなどの相関(図3)およびKuthrill実施時刻など(図4)について行った。なお,PC版は,これらの図のAとB(上段),スマホ版はCとD(下段)にそれぞれ示す。
被験者はPC版では13人であり,試行前テスト正答率(平均50.6%),試行後テスト正答率(平均71.3%),テスト成長度(平均20.0)であった[9]。スマホ版の被験者は12であり,これらの結果はPC版とほぼ同じ値であった(表2参照)。一方,Kuthrillのスコア,プレイ回数,プレイ日数は,PC版では,それぞれ30.5,39.5,2.1であり,スマホ版とは少し異なった(表2参照)。前者3項目の値が,使用機器が違うにも関わらず近いことは,被験者の学力がほぼ同じであることを示すと考えられる。数値が異なる後者3項目においては,PCとスマホでは被験者の扱いに差があることを示唆しているので,以下で考察する。
スコアの平均値は,PC版の方が8.5だけスマホ版より高い。これはスコアが0の被験者がPC版の1人に対し,スマホ版の4人であることに起因する。一方,どちらの場合もシリアスゲーム(または単にゲーム)が好みのようであり,成績が大きく向上する被験者が一人はいる。PC版のある被験者の結果は,試行後テスト正答率92.0%,テスト成長度32.0,スコア102.1,プレイ回数65,プレイ日数2であった。スマホ版では,被験者5の試験成績の向上が著しい(表1)。この結果は,シリアスゲームの嗜好を反映していると考えられる。
PC版ではゲームのプレイ回数とスコアの間(r=0.25)ならびにプレイ回数と試行後ペーパーテストの成績(r=0.07)に相関は観察されなかった(図3Aおよび3B)が,スマホ版ではゲームのプレイ回数とスコアの間(r=0.71)およびプレイ回数と試行後ペーパーテストの成績(r=0.62)において有意な相関を確認することができた(図3Cと3D)。プレイ回数については,PC版もスマホ版もどちらも個人差が大であった。スコアに関しては,プレイ回数が少ない被験者が0点またはこれに近い点を取る傾向は,スマホ版の方がPC版より大きかった。スマホ版はいつでもどこでも試行できることから(図4参照),より熱心に取り組んだ者とそうでない者の二極化がおこり,ゲームのプレイ回数とスコアの間およびプレイ回数と試行後ペーパーテストの成績に有意な相関が現れたと著者らは考えている。
PC版,スマホ版それぞれの実施時刻とプレイに要した時間を図4に示す。図4Aに示したPC版の実施時刻のヒストグラムでは,夜間の実施が殆どであるが,図4Cに示したスマホ版の実施時刻のヒストグラムでは11時〜15時,19時〜21時に集中しており,それぞれ全体の約30%と21%となった。PC版と比べて,スマホ版は昼間の試行回数が格段に増えている。この結果は,プレイ媒体がノート型PCからスマートフォンに変わり常に携帯できるようになったため,帰宅後の空き時間以外に通学時間や休み時間も学習に利用するようになったと考えられる。また,プレイ回数の平均はPC版が39.5回であったのに比べスマホ版は53.1回と増加していることからも,使用機器がスマートフォンに変更されたことでKuthrillの利用が容易になったことがわかる。
PC版Kuthrillのプレイ時間のヒストグラム(図4B)では,70〜100秒にピークがみられる。一方,スマホ版(図4D)では80〜150秒を中心とした分布であり,約25%が80〜110秒の間に集中し,300秒以上かけてゲームを行う場合は3%未満であった。両者の違いとしては,PC版に比べ,スマホ版のヒストグラムの方がやや横広がりになっていることが挙げられる。その理由として被験者の中には日常的にスマートフォンを利用していない者(4名)も含まれているため,慣れるまでの間は操作に時間がかかった可能性が考えられる。
PC版ではプレイ回数がスマホ版に比べて少なかったが,試行後ペーパーテストの成績には大きな差は見られなかった。PC版では夜間に自宅で学習するため,集中的に行った可能性も考えられるが,原因については,今後の課題である。
Kuthrillスマホ版実施時刻のヒストグラムとゲームのプレイ時間のヒストグラムにはそれぞれピークが観測されたが,被験者間のプレイ回数の差が大きいことからデータの偏りが懸念される。今後さらなる調査が必要であろう。タブレットPCについては,今回のスマホ版とPC版[8]のどちらの調査においても使用していないが,操作性・携帯性などがスマートフォンに近く,急速に普及していることから今後の研究では考慮する必要がある。
小谷ら[9]の報告においては,Kuthrill PC版の使用により,薬理学の学習効果が明らかに上昇し,また試行回数を重ねるごとに試行時間(解答するまでの時間)が短縮されている。Kuthrillスマホ版でも,テスト成長度が30以上である被験者は1,5,8,10の4名であった(表2)。PC版のプレイ回数は,平均39.5回,スマホ版は53.1回であることから,PC版に比べ,スマホ版では試行する時間帯が夜から昼に移行し(図4),利用率が上昇した。すなわち,被験者1,5,8,10の成績上昇の一因にいつでも利用できるスマートフォンの存在があると考えられる。特に,スマホ版の被験者5は,テスト成長度(54.2),Kuthrillスコア(86.9),プレイ回数(140回),プレイ日数(7日)と最も良好な成績を修めた(表2)。この結果は,ゲームをしながら知識が身についているという自覚があることが示唆された。
薬学分野は次々と新しい作用機序の薬が承認されており,ゲームの改訂も必要である。今後の改訂の中で,学習の動機づけのため,「列が消えると,その薬効あるいは消えた薬物に関する情報が表示される」等の改訂も検討したい。また,更なる学習のため,web上で公開されている薬理学電子教科書 [25]等へのリンクも検討したい。
薬学生を対象とした試行では, Kuthrill PC版とスマホ版のどちらの研究からも,試行後のペーパーテストの成績・成長度とKuthrillのスコアにおける強い相関が得られ,Kuthrillは薬理学学習に有用であると結論できた。また,アンケート調査の結果から,インフォーマルラーニング素材としてのKuthrillの学習効果を支持できた。今回の研究からは,スマートフォンの特徴である携帯性と操作性を反映してKuthrillスマホ版では昼間の時間の実施回数が増加することが分かった。薬学教育では習得すべき事項が多く,講義外での自習によるインフォーマルラーニングが欠かせないが,場所に縛られず,昼間の少しの空き時間を活用できるKuthrillスマホ版はインフォーマルラーニングに適するものと考えられる。
謝辞 ソフトの評価に協力していただいた東京薬科大学の学生の皆様に感謝します。