「化学教育ジャーナル (CEJ)」創刊号/採録番号1-2/1997年11月5日受理
URL = http://www.juen.ac.jp/scien/cssj/cejrnl.html


相対主義的科学教育の勧め

舟橋正浩(連絡先 mfuna@fsinet.or.jp)

今、理科離れの原因がいろいろ言われている。その対策として科学啓蒙であるとか、科学の成果や重要性を語ることなどに力点が置かれているようだ。

しかし、個人的には、それは対策として適切であるとは思われない。個人的な感想でしかないことで恐縮であるが、一番の理科離れの原因は、絶対主義的科学観と、受験の結びつきによるものとしか思えない。
すなわち、教科書上では、科学の内容は、すでに確定していて、それが正しいものとして固定されてしまっている。そのために、受験に追われる生徒にとって、実験など時間の無駄でしかない。正しいことを覚えてしまうことが重要なのだ。
しかし、科学で本来的に面白いことはそうではないはずだ。様々な自然現象を説明できることも、面白さの一つかもしれないが、実際に一番エキサイティングなことは、いろいろな実験の中から答えが無い法則を考え出したり、さらには既存の理論を覆していく点にあるはずだ。科学の面白さというのは、そういった答えが無いところにあるはずではないだろうか。

少なくとも今の日本の科学教育では、この部分は大学に入っても伝わらないだろう。今のままでは
科学=正しいもの
という図式に縛られるのだ。文系に人材が流れるのは、確かに、大学で楽そうだという印象のせいもあるであろう。
しかし、何より、正しいものに適応しきれない、それを記憶することの出来ない人にとってはつまらないものでしかない。

こうした絶対主義の傾向は、教科書を見ると一目瞭然である。たとえば、日本の理科の教科書は、「です」「ます」の言い切りが基本である。ところが欧米の科学の教科書は
「We think that」
「We believe that」
などと文章につくのが主流だ。実際、科学の理論はそれほど確定したものではないという自覚こそが大切なのである。

確かに教える側にとっては、正しいと確定したものを教えるという方がはるかに楽なのだろうが、それをすることによって、多くの中高生の科学への関心を奪っているとしか思われない。
確かに知識を身につけさせるという意味では、「〜と思われている」とか「〜と信じられている」では教えにくいのであろうが、今われわれが利用している科学理論がそれだけ弱い基盤にあることを自覚させる方が、より興味関心を引き付けることが出来るであろう。科学の道へ進むということは確定したルーチンワークをこなすということではない。そこには,よりエキサイティングな実験と理論体系の世界が待っているのだということを若者たちに教えた方が,科学をどれだけ興味深く見られるであろうか。

科学の成果(舟橋は必ずしも科学の成果なる物を認める気はない)を語るよりは、科学の基盤の脆さを語る方が、よっぽど今日の高校生の関心をひくことが出来ると思われる。
もっとも実験とセットであることは、必要ではあるが。


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