(注1) たとえば、永野繁二「長岡半太郎論」『科学知識』1946年No.6, p.43.

(注2) 板倉聖宣・木村東作・八木江里『長岡半太郎』(朝日新聞社, 1973), p.300.

(注3) 小林惟司『寺田寅彦の生涯』(東京図書, 1995), p.282. なお、この書にこの件についての記述があることは、隅蔵康一氏(東京大学 先端科学技術研究センター; 1997年7月現在)に教えていただいた。

(注4) 木原均・篠遠喜人・磯野直秀監修『近代日本生物学者小伝』(平河出版社, 1988), pp.198-199.

(注5) 「田中舘博士を囲んで(座談会)」『科学ペン』1936年1月号, p.38.

(注6) 「田中舘博士を囲んで(座談会)」『科学ペン』1936年1月号, pp.38-39. なお、同誌では田口和義となっているが、田口和美の間違いと判断し、引用文でもそのように正した。田口和美(1839-1904)は、東京大学の初代解剖学教授となり、1893年には日本解剖学会を創設して初代会頭に就くなど、わが国の近代解剖学の歴史に大きな足跡を残した人物である。

(注7) 日本がロシアに宣戦を布告したのは1904年2月10日、田口はその前、2月3日に没した。

(注8) 「日露戦争も知らず」というタイプの科学者に対する庶民の苛立ちは、子供向けの伝記の中にも現われた。澤田謙『エヂソン傳』(大日本雄弁会講談社, 1926)の中には、次のような一文がある(pp.81-82)。「私[澤田]はかねがね、エヂソンをただ、終日こつこつ研究室で試験管を握っている、発明の化け物のようにばかり紹介されているのに不服をもっていた。彼は天才的な発明家で勤勉家である。しかしそれと同時に忘れてはならないのは、彼もまた赤い血のかよっている人間であるということだ。人間エヂソンの姿! それを最もよく示すのは、彼の少年時代からのいたずらだ。世には、最近まで世界大戦を知らないで、研究室に首を突っ込んだきりの科学者もいた。日本でもなんとか博士は、地下室から久しぶりに出てきて、はじめて10年前に日露戦争があったということを知った、という人もいたが、エヂソンはそんな人ではなかった。」

(注9) 他方、科学者を志すのではない人、科学の研究現場から遠いところで日々を送る一般市民もまた、「科学と社会の接点で生じうる諸問題」について、社会を構成する一員としてどのように考え・行動すべきなのかを学んでおかなければならない。科学(者)に対し、単にシニカルな目を向けるだけでは、だめなのである。