「化学教育ジャーナル (CEJ)」第3巻第1号(通巻4号)発行1999年7月29日/採録番号3 -1/受理1999年6月29日
URL = http://www.juen.ac.jp/scien/cssj/cejrnl.html
巻頭言 物理を教えることから教育をみると

大澤 健郎
 上越教育大学学長 ohsawa@juen.ac.jp

 私は研究者として、また、大学の教官として、長い間物理学の研究と教育に携わってきました。上越教育大学にきてから、小学校や中学校の理科の授業を見る機会が多くなり、自分が考えていた以上に物理学を教えることが、教えられる側の変化に応じて変化していくことに気が付きました。そこで、ここで、物理学を教えることから教育について少し考えてみたいと思います。

 物理学を教えることのそもそもの出発点というか源流はどこにあるのかを考えてみると、それは、論文の作成にあることに気が付きます。研究が終了すると、その結果を論文にすること、つまり、自分が発見した事実を研究者仲間に伝える作業が待っています。論文のスタイルには、いくつかありますが、教育という観点から考えると二種類あると思われます。一つは、発見された事実だけが説明や論理展開も無いまま、感興の赴くままにというか、天才的に記述された論文です。これも、教育は情報の伝達という広い定義からみると、教育の一環と考えてよいのかもしれません。しかし、論文を理解する読み手が少ないので、教育という行為は情報の発信者とごく限られた受信者との間でしか成立していません。二番目の論文のタイプは、その研究の動機や経緯から、新発見の意味や現在の体系の中で果たす役割などを理解し易く記述しているものです。この場合、読み手の理解を容易にする努力がなされている点に教育的行為を見ることができます。実際、多くの研究者が論文の内容を理解し、その内容を発展させていくことができます。このように、情報の発信者と受信者とが同じ知的水準にあっても、発信される情報がより多くの受信者に理解されるためには、“教育”という視点が必要になっているのです。

 次に、大学院レベルでの教育を考えてみます。この場合は、情報の受信者が持っている物理学の情報量と情報処理能力は発信者に比べると、より低いレベルにあります。しかし、学習者はすべて、物理学の研究者を目指しているので、教育の目的は明確であり、情報の提供にあたって、その内容と内容の展開の方法にだけ特別な配慮が必要になってくるのです。まず、内容においては、膨大な情報の中から、最先端の研究に必要な情報だけを選択し、次にその内容を最新の数学的手法で展開し、学習者の今後の研究において鋭利な武器になるような形で提供する必要があります。

 次に、大学での教育を考えてみます。ここでの教育の状況は大学院レベルと比べて、大きく変わってきます。まず、情報の受信者の全てが研究者を目指しているわけではありませんし、また、物理学の内容の展開に必要な数学をすべてマスターしていない状態であることも加わります。つまり、教育を受ける側の学習の目的、意欲、学力等の知的レベルが同一ではなくなります。この場合は、内容の選択とその展開の方法に工夫が必要なだけではなく、さらに、学生の興味を惹起させるように、授業の方法にも配慮が必要になってきます。学習者の目的に合った内容、無理のない数学的展開、適度な授業の進度に加えて学生を飽きさせない話術が要求されます。つまり、発信者の情報を受信者に受け取らせるための努力、教育的努力が大きく必要になってくるのです。この状況は、高等学校でも殆ど変わらないと思います。ただ、高等学校では、教える内容が決まっていること、数学の利用が更に限られること、知的レベルの広がりが大きいことなど、大学での状況と比べて、一層教育的努力を必要とする方向に進んでいるのです。

 そこで、大学と高等学校での物理学を教えることについて、高等学校を中心にして考えてみることにします。大学までの物理の教育では、物理学の体系を学ぶ面白さがかなり重要な役割を果たします。一見無関係と思われる事実の集まりから法則が導かれ、その法則の集まりがまた数少ない法則に纏められ、ついには数個の法則から全ての事実が説明できるようになります。このように体系が形成されるプロセスも、論理的な体系の美しさも、体系の有用性も、学習者の興味を惹きつける材料として十分利用できます。しかし、高等学校では、このことの利用は非常に限られてきます。以下に、思い付くまま授業の進め方について述べてみます。まず、授業では主として現象の持つ面白さを前面に打ち出すことになり、現象をできるだけ眼に見えるように工夫して、実験や映像で提示することが必要になります。また、簡単な現象なら実験結果の解析と記述を通して法則の導出を Plausible な議論ですることも重要です。その他、法則を用いて問題を解くプロセスを、心理的に説明する、つまり、教師が、なぜその法則を使うことに気が付いたのか説明し、学習者がその法則の適用に気が付かなかったのはなぜかなど、議論する中から法則の使い方、内容に付いての理解をはかることも重要です。しかし、一番大事な点は、学習者が教師と向きあっていること、つまり、教室での学習の場を成立させる教師の力量だと、思います。大学教育でも話術の必要性を指摘しましたが、高等学校では更に、教師の人間性が教育の重要なファクターになってくることになります。

 中学校、小学校では学習者の認知能力の発達という新たな要素が加わってきますが、予定の分量を過ぎましたので、高等学校のところで筆をおきます。“物理学を教えること”が意外に難しいことであり、真面目な研究の対象になるものと思います。“理解できる者だけがついてくれば良い”、“授業は刺激、あとは学生が自ら努力せよ”的な教育が解消されることが急務であると思っております。


An Educational Point of View in Physics Education

Takeo OHSAWA, the President, Joetsu University of Education
本文先頭  CEJ第3巻第1号目次