「化学教育ジャーナル(CEJ)」第6巻第1号(通巻10号)発行 2002年 7月 31日/採録番号 6-3/2002年 6月 28日受理
URL = http://www.juen.ac.jp/scien/cssj/cejrnl.html


教育の自由化を望む

坪村 宏       
大阪大学名誉教授   
gg7h-tbmr@asahi-net.or.jp

 現代の日本では、官僚の主導による硬直化した行政がさまざまな分野で問題を生じ、この国の発展を阻害しているが、教育についても敗戦以来の文部省(現文部科学省)官僚による行政が次第に大きなひずみを生じていることが明らかになりつつある。

 その一つの現れが学習指導要領である。本来、学習指導要領はアメリカ占領軍の発案によって、戦後すぐに発布されたものであり、元来は文字通り‘指導要領’であって、強制ではなく、学校での教育実施の一つの指針として与えられたものであった。それが、時とともに、全国津々浦々の小学校、中学校、高等学校での授業を事細かに強制的に規制する法律のような性格のものとなった。およそ十年ごとに大して意味もなく改訂され、その都度、教科書も書き直しを命じられ、おおむね無用の混乱と負担を与えてきたものである。

 それが、80年代から、意図的な学科内容の削減を命じるものとなり、94年の学習指導要領に至って、いわゆる‘ゆとり路線’がはっきりと見られるようになった。さらに本年からの新しい学習指導要領では‘ゆとり路線’がさらに推し進められ、学力低下を招くとして、論議を呼んでいるのは周知のことである。

 実際この新しい指導要領によって、小・中学校の生徒の国語、算数、理科などの学力は大きな低下を生じつつある。そのしわ寄せが高校の理科教育にも支障を生じようとしている。国際社会における日本の将来のために、取り返しのつかぬことになろうと憂慮される。わたしも、及ばずながら、さまざまな機会を捉えてこのことについて述べてきた(参考資料)

 教育は教える教師と教わる生徒(学生・児童)の間の心が触れ合わなければならないものであり、それがどのように展開されるかは、現場教師の力に大きく依存することはもちろんである。国の中央行政機関が、授業課目、内容、時間数まで細かく規定し、厳密に施行を命じるようなことはあるべきでないと言うのが私の考えである。国が行うのはせいぜいのところ、学校あるいは教師の参考となる基準を示すくらいが適当なのであり、強制は害のみあって、益がないことである。文部省官僚の思うままに発信されたいろんな指令が、全国都道府県の教育委員会を通じて学校に伝えられ、先生たちが矛盾を感じつつもこれに従う姿は見るに忍びない。このような行政指導の行きすぎは、現場の教育を混乱させ、教師の意欲を衰退させるものに他ならない。

 何がゆえに、文部省はこのような愚策を推進してきたか。その理由としてはいわゆる落ちこぼれの問題化とその救済が考えられる。戦後以来のわが国の高学歴化に伴い、文部省は教育の多様化を認めず、平等・一律の学校・大学体系を推進してきたため、必然的に生徒の学力に格差が生じ、そのため、クラス授業が困難になってきた。その打開策として、生徒の学力を最低レベルに合わせることとし、また一部の教育学者の自由教育論にも影響されて、出てきたのが‘ゆとり路線’であった。しかし、これは問題の解決にならず、むしろその激化を招いたことは今日までの歴史の示すとおりである。この問題の解決は、教育の多様化を正しい方法によって推進することであった。

 この学習指導要領政策の推進のために、文部省は教科書の厳しい規制を行ってきた。学校が使用する教科書は、これまでページ数、定価まで制限され、内容については学習指導要領を超える部分があれば削除が要求された。従わない時は容赦なく検定不合格となり、出版・販売が禁じられる。この規制はここ数十年来厳しさを増してきており、今回の学習指導要領改定に伴う新教科書に至ってその愚劣さは極限に達している。ここで具体例を述べることはしないが、独裁国にも見られぬ極端な統制ぶりである。

 学校ではこれら検定教科書を使用することが強制されており、他の教科書、あるいは手作りのプリント等による授業を行う学校においても、建前として、検定教科書を使うことにして検定教科書を購入することが義務付けられているのが現状である。この結果、日本で使用される教科書はどの出版社のものもほとんど差がないほど一様化したものとなっている。これは中学・高校を問わず、すべての理科教科書に共通して言えることである。上述のような制限の結果として、日本の理科系教科書は主要な理論や法則の羅列の観を呈し、それら理論や法則の学問的面白さや応用の大切なことなどまで丁寧に述べることが出来ない。フルカラーを使って写真やイラストをふんだんに混ぜ、丁寧に解説した米国などの教科書と比べると、まさに対蹠(たいせき)的なちがいである。

 日本の科学教育を阻害するもう一つの大きな要因は、各中学、高校において大学入試が大きな動因になっていることである。国民の大半が大学進学を目指すようになり、また国民の中に学歴が将来を大きく左右すると言う固定観念が強くある限り、学校教育は大学入試対策に大きく左右されることとならざるを得ない。これについては大学の当事者にも大きな責任があるが、そのことの自覚はまだ乏しい。

 結果として、日本の理科教育は本当に必要な理科の知識、学問への興味を呼び起こさせるものから外れ、暗記的なその場限りの受験勉強となり、教科書もそれに適合した、上滑りなものになってしまっている。たとえば日本の化学教科書と米国などのそれとを比べた時、差は明らかであって、誰しもがこれでは日本の化学教育はどうなるかと言う深い危惧の念を持つだろう。物理、生物についても同様である。統計に よれば日本の若者の理科に対する関心は、諸外国のそれと比べて著しく低いとのことであるが、その理由は上に述べたような理由から、正しい理科教育がなされないことによると私は考えている。

 これを打開する方法として、まず学習指導要領の廃止、ないしは強制を伴わないガイドライン化を行うべきであると考える。また、教科書検定も、教科書ページ数、定価、内容等の規制も撤廃すべきである。さらに、学校教育法による縛りを廃止し、学校設立・運営をもっと自由にするべきと思う。国民がそれぞれ多様な人生を送り、多様な志向を持つ限り、学校も教科書も多様なものがあって当然であって、これらは自由競争下に置くことによってのみ発展すると考える。

 このほか考えるべきことはたくさんあるが、国民の教育を改革する上で、大学の役割も非常に大きいものがあり、むしろ大学がそれを主導して行くべきかも知れない。しかし、現在の大学はそれに答えるには極めて不充分な体制にある。これは大学人自身も反省すべきであるが、大学に対する文部省の規制も初等・中等教育に劣らず実に厳しいものがあり、それによって大学が身動きならぬ状態に置かれてきたことも指摘されるべきだろう。大学のこれからについても考えることは多い。

参考資料

  1. 小堀桂一郎編、坪村 宏、一部執筆。小学館文庫“ゆとり教育が国を滅ぼす”2002年2月発行。
  2. 坪村 宏“日本の科学教育が危ない”近畿化学工業会会誌連載,2000年、7月号、2001年、2月号、5月号、11月号、2002年、7月号。
  3. 平成13年度全国理科教育大会全国理事会講演 坪村 宏“日本の理科教育に期待する”。


坪村 宏
gg7h-tbmr@asahi-net.or.jp


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