「化学教育ジャーナル (CEJ)」第7巻第1号(通巻12号)発行2003年 9月20日/採録番号7-1/受理2003年 8月 9日 URL = http://www.juen.ac.jp/scien/cssj/cejrnl.html


巻頭言  

「ことば」と「ことばにならないこと」と化学
Chemistry behind words and symbols

有賀 哲也 aruga@kuchem.kyoto-u.ac.jp
京都大学大学院理学研究科

1

 人間が成長に伴ってことばを獲得していく過程はつくづく不思議だと思う。うまれたばかりの赤ちゃんはことばをもたない。具体的な事物だけの世界で生きている。これは凄い世界だ。それが2歳前後になると、まさにいきなりという勢いで言葉をしゃべり出す。喃語から、一気に2語文、3語文を喋るようになる。放り出すような名詞しゃべりが、いつのまにか動詞を使うようになる。複文を使いこなすようになる。爆発的な精神の発達が起きているのが外から見てもわかる。精神の発達を、具体物から出発して抽象化・概念化していく過程と捉えれば、ことばの獲得はその過程における最大のイベントであろう。

 ことばには、ふつうのことば(自然言語)のほかに数理言語というものがあって、自然科学はこれによって記述されることになっている。ふつうのことばとは全く異なるものと見られがちだが、そうでもない。子どもには、自然言語と同じように数理言語を獲得する能力が本来備わっているのではないかとさえ思う。例えば数の概念。小学校にも行かない幼児が、目の前にある積み木を「つみき」と認識するのとは別に、モノとしての属性を全て捨象して「みっつ」とか「いつつ」とかいう数概念で捉えることができてしまう。これもまた途方もない抽象化プロセスだと思う。これからすれば、分数も小数も(あるいは複素数も微分積分も)小さなステップではないだろうか!

2

 数理言語で何かを考える時には、数式そのままとして思い浮かべながら考えるのではなく、一度、もっと抽象的、図形的なイメージに置き換えて考えているような気がする。たとえば、私は小学生の頃から、わり算の計算をする時には頭の中にコンニャク玉の塊のようなものを思い浮かべていて、それをたとえば 1/4 づつに分割する情景を想像することで計算の道筋を確かめていた。そしてノートなり答案なりに数式として書くのはそのイメージを単に翻訳しているだけだと感じていたように思う。いまでもそういうことをしている。そういうイメージが湧かないのは、数式の意味がつかめないときだったりする。──そういえば、あまり数理的でない「ふつうのこと」を考えているときにも、ことばそのものではなく、もうすこし曖昧なモヤモヤとしたイメージのようなものがあって、そのモヤモヤしたイメージを頭の中で操作することでものを考えているような気がすることがある。

 むかし小中学生の算数・数学の勉強を見ていてよく感じたことだが、子どもが一応の理屈は分かっているはずなのに易しい練習問題が全然解けなくて「わからない」という時、その子は説明文や問題文の字面(=文字の表面的な意味)だけを追っているのではないだろうか。そんな時は、「公式」と呼ばれるものの使い方を説明するよりも、感覚的なイメージをつかませる工夫をする方がうまくいくことが多かった。ことばそのものと、ことばによって表現されているなにものかとは、別のものなのだ。「わからない」の多くは、ことばそのものの背後にことばではないなにものかがあるということを忘れた時に生まれるのではないだろうか。

3

 化学の場合はどうだろう。以前、『化学語』というものを考えてみたことがある。化学的内容をもっとも良く表現するための人工言語である。たとえば「有機化学地方」の化学語は、周期表的な整然とした語彙録と幾何的・図形的な性質のつよい文法体系をもつことになるのではないかと思う。学部学生の頃に受講した有機化学の講義で印象に残っているのは、反応物の化学式に矢印や点線をチョチョイのチョイと書き入れて、どのような反応が進むのかを説明するやり方だった。複雑多岐な有機反応が、非常に単純な原理で支配されているのだと思われた。私はその矢印や点線の文法を(一度は苦労して理解したはずなのに!)すっかり忘れてしまったのだが、それらを使いこなすためには、単なる矢印や点線で表されている図の背後に、化学反応についての、非常に抽象化されていると同時に非常に具体的でもあるイメージを持っていなくてはいけなかったと思う。

 「熱」とか「エネルギー」などの概念は化学にとってものすごく重要なものであって、だから高校化学の教科書にも取り上げられている。しかし、それを学ぶ高校生は、「熱」とか「エネルギー」について、熱化学の計算の仕方だけではなくその背後に何か具体的なイメージをつかんでいるのだろうか? 何社かの高校化学教科書について熱化学の記述を調べたことがあるのだが、エネルギーとは何か、物質がエネルギーを含有するとはどういうことかという肝心のところの説明がおざなりであると感じられるものがいくつもあって残念に思った。計算問題を解くのに必要な事項を説明するので手一杯だということかもしれないが、大学生になってもこのあたりの概念形成がしっかりとできていないために、とんでもない間違いをしても平気でいられる理科系の学生も多いのである。

 化学は、具体的な物質から出発して具体的な物質に還ってくる学問だが、その具体から具体へのループの途中でさまざまな抽象化・概念化の操作を行う。抽象化のループが大きくかつ深いほど── 言い換えれば、抽象概念の核になるイメージをしっかりとつかむほどに──、個々の物質が有するより美しい姿を発見することができるのだと思う。


Tetsuya ARUGA, Dr.
Department of Chemistry, Kyoto University, Kyoto 606-8502, Japan
<http://kuchem.kyoto-u.ac.jp/hyoumen/earg.html>


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